『モノ』との距離感/共生(2)

 美しい見た目

〈美〉/仮象…… ”

 誤謬(ごびゅう、英: logical fallacy)、錯覚が美にまつわる判断には必ずついてまわる。〈美〉は往々にして理性を曇らせる。見かけに惑わされ、恋に落ちる。モノへの思い入れも現実の恋愛と似ているところが多く考えさせられる。

 エードゥアルトとその友人の大尉、エードゥアルトの妻シャルロッテと彼女の姪オティーリエという4人の男女を中心として展開する不倫小説。エードゥアルトとシャルロッテは若い頃に恋人同士であったが、互いに別々の異性と結婚し、その後互いの伴侶を失くすという経験を経て再婚したという経緯を持つ夫婦。ゲーテの作品執筆の動機には、1807年頃の、イェーナの書店の養女であった当時18歳の少女ゾフィー・ブルクハルトに対する密かな愛があったと言われている。

 『親和力』についてのベンヤミンの評論。ベンヤミン夫妻自身がまさにW不倫の渦中に合ったことが背景にあって書かれた。親和力とは簡単に言えば引きつけ合う力の事だ。予期せぬ魔力のような引力によって魅了され、理性を超えて始まる関係の原点。似たような出来事は〈モノ〉との関係においても起こりうる。個人的にはYAMAHAの製品のもつ独特の〈美〉に惹かれたところにも現れている。金属のパネルと電子部品の集積であるアンプという〈モノ〉に恋焦がれる──まずは、視覚情報が優先される。とりあえず見た目の美さから入る。あくまでも表面的な〈美〉に過ぎない。だから思い込みが大きく外れることもある。   

 ベンヤミンは『親和力』のストーリーにおいて美化された『死』を絶賛した文学者フリードリヒ・グンドルフへの徹底した批判を展開した。当時、第一次世界大戦で多くの若者が命を落としたが、グンドルフは時の権力と癒着して死を美化していた。ベンヤミンは『死』を神話化せず、同時に〈仮象の美〉をも否定した。現代においては、もはや〈仮象〉と言う語彙は過去の遺物だとする意見も増えてきたのだが……    JBL#4343のグラフィカルなデザインは黄金分割比を駆使したのではないかと勘ぐりたくなるような均整美を感じる。この美さは絶対的で本質的なものであり得るのか、〈仮象的〉なものに終わってしまうのか、判断は使い手に委ねられる。   

 フロントバッフルという限られた平面における構成要素の配置、そのデザインによって独特の張りつめた緊張感に満ちた雰囲気が醸成されている。2405のスクェアなスリット状のホーン開口部、中に見える楔型のディフューザーが醸し出す雰囲気は通常の円形のホーン開口部と砲弾型ディフューザーをもつタイプとは一線を画している。音響レンズの視覚的インパクトも無視できない。音的に外した方がいい、という意見もあるがみっともない姿を晒すことになり4343のイメージを激しく毀損するだけだ。あくまでも装着した状態でいい音を出す工夫をしたい。

〈美〉は単なる趣味判断なのか

 美しいと感じる感性的な判断は個人の趣味判断、とするとやはり個人の〈仮象性〉という錯覚、思い込みと片付けられてしまいそうだ。JBL#4343 のグレイ仕上げについて言えば、この禁欲的で排他的な、己を内に封印するような閉鎖性があってこそ、独特の美を内に凝縮させえたのではないかと思えるのだ。視覚に訴えてくるイメージが、響きのひんやりして濃密な透明感、繊細感に貢献しているはずである。


結果としての〈音〉がすべて

 美しい、とため息をついてただ眺めているだけでは #4343 との関係は、美しい恋人をただ眺めているだけ、に等しい。しっかり抱きしめるには……

 本物の業務用スタジオモニターの#4343は家庭でアマチュアが使用する事は想定外。プロがしっかり調整して使用することが前提で、イコライザーを使わない、というのはルール違反。まったく野放しのノーコントロールでは#4343を聴いていることにはならない。


コントロールして完結する〈美〉

 アンプにつないだだけで、イコライザーによる補正なしの野放しの #4343 は裸で暴走させられているも同然で、プロの失笑をかう世界。神話的な妄想に洗脳されている多くのオーディオマニアはいつになったら回転木馬から降りなくては、と気付くのだろう。

 業務用パワーアンプにはイコライザーがビルトインされたモデルが多いのはなぜか、と思って欲しい。



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