オーディオという幻想

 リアルに音楽を聴くための『道具』に徹する


『病気』というものは教科書に出ているような、典型的でシンプルなものは少ない。水面下に複雑な、隠された病変が必ずと言っていいほど混じり込んでいる。検査データや画像からだけでは見えない、水面下の氷山みたいなものだ。

 大学病院を筆頭に規模の大きい総合病院のリウマチ、膠原病、内分泌、神経内科は新患の受け入れが不可能になっているほど患者が集中している。アレの副作用が炸裂中、というわけだ。予想通りの展開になってきた。


 本業があまりにも忙しくなり、専門外のこともじっくり調べながら治療戦略を立てねばならない状況になってきたので、最新の文献を取り寄せ読み込まねばならない、そんな受験生のようなタイムテーブルに乗せられている。

 オーディオ宗教のマインドコントロールからいきなり醒めたのはそんな過酷な現実の中でふいに起こったセレンディピティかもしれない。ぐっと縮小・簡略化したシステムだがスピーカーの潜在能力の高さ(能率、サイズ、形態など)によって、SR−PAの現場で前提として求められるサウンドコントロールを省略したりしない限り、家庭内での音楽鑑賞はもう、これ以上は必要ないという結論に至った。趣味としてのオーディオに求められる付加価値は今の自分にはまったく必要のないお飾りだ。趣味の世界での価値観なのであくまでも自分のテリトリーでの結論だ。人の恋愛にケチをつけるつもりはまったくない。『お前のカーチャン、でーべそ』なんていい歳をして言い放つのは『病的』でみっともない。またある日突然、ハイエンド機器をずらりと並べちゃったりするかもしれないし……

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