My Audio Life/暇と退屈(6)

 ハイデッガーの退屈論

<暇と退屈の倫理学>を読み進めていこう。と、忽然とハイデッガーが登場する。最初に予告があった通りだが、かなりのボリュームで彼の退屈論を扱っている。

『存在と時間』の2年後に講義録として公開された『形而上学の根本諸概念』で、まさに “ハイデッガーの退屈論” とも言える、退屈に関する哲学的な深い分析が行われている。オーディオにおける機器入れ替えの衝動を例に考えてみよう。

McIntosh で満たされているのになぜ?


 動機は不倫や裏切りに走る瞬間の葛藤と似ているかもしれない。最愛の妻や恋人がいるにも関わらず恋に落ちる、というパターンだ。妻や恋人にはない、まったく別の “はっとする魅力” を感じて愕然とするところからスタートする。


 ここでどう行動するのか、それはその人の感情と理性の連鎖反応がどう進むのかで決まってくるだろう。

知的好奇心に火がつく。論理的ブレーキや直感のブースターがかかってくる。そして、これから起こり得ることの仮説思考が回り出す。なんとか全体を把握しようと悩む。そして、シンプルに単純にまとめ直そうと言う抽象化思考が優勢になって、フワッとした結論に導かれる。

Technics SU-R1000

 動物的な体臭をまったく感じさせないにも関わらず無期的になりすぎてもいない、今風に言えばヒューマノイドの美しい女性のようだ。

 徹底してクールに無駄を削ぎ落としたこのデザインにまずはっとした。もちろん、はっとしただけですぐに行動に移ったりはしない。しかし、はっとしてしまったのは『退屈』と関係してのことだろうか……

 ハイデッガーは、哲学はいつもなんらかの根本的な気分の中に現れる、と言っている。彼は、哲学とは何かと規定するにあたり、18世紀の思想家ノヴァーリス(1772〜1801)があげた哲学の定義を引用する。ノヴァーリスは、哲学とはほんらい郷愁である、と言う。さまざまな場所にいながらも、家にいるように痛い、そう願う気持ちが哲学なのだ、と。ハイデッガーは、なぜこの定義を採用したのか? 彼は何も説明はしていない。が……
───哲学の概念についてどんなに多くの知識をもっていようとも、その概念について問うことで心を揺さぶられたり、心が捉えられるといった経験がないならば、その概念を理解したことにはならない。
 こう語っているのだ。つまり、ハイデッガーは、ノヴァーリスが「哲学とはほんらい郷愁である」といったことに感動し、心を揺さぶられたわけである。
【郷愁】という『気分』……
 ハイデッガーは、実は【気分】という概念をとても重視していた。そして、まずこう考えた。

───私たちは今自分たちの役割を探している。いや、と言うよりも、私たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。
 そして、
───結局、ある種の深い退屈が人間の深淵において物言わぬ霧のように去来している。

ハイデッガーは彼の退屈論の大筋退屈として、『退屈を』を3分類した

① 何かによって退屈させられること(Gelangweiltwerden von etwas)
② 何かに際して退屈すること(Sichlangweilen bei etwas)
③ なんとなく退屈だ(Es ist einem langweilig)

 ②の原因は? そこで本来的な自己が失われているからだ。「外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になる」体、と。③は、3つの退屈のうちでいちばん「深い」。この退屈には、「もはや気晴らしが不可能」なのだそうだ。まさに日常生活あるいは人生の根源的な無意味さに気づく瞬間……
 その時、人は「自分に目を向ける」ことになる。「自分がもっている可能性に気がつく」「私たちが自由であるという事実そのものである」と言うことに。だから人はこの自由を実現しなければならない。「決断することによってだ」。

 ハイデッガーは、この「深い退屈」を「根本気分」と称しているけれど、國分も指摘する通り、『存在と時間』で「根本気分」は「死に対する不安」であった。ハイデッガーのいう「根本気分」は、日常生活にひびを入れ、人間の条件を明るみに出し、人を思索に誘い込む、ある特別な気分のことである。


 退屈の第三形式には「気晴らし」がない……    ひとたびこの深い退屈にとらわれると、そこから二度と抜け出すことができなくなる? 國分は「『なんとなく退屈だ』の声は、ふと聞こえるのであって、その声がたえまなく耳元で大音量で流れている状態など考えられない」と言う。つまり、この声は自然に消えてしまう可能性もある。だとすると、どんな「決断」が必要なのか。言葉の響きは英雄的だが「決断」とは【心地よい奴隷状態】のことである。と、これは①の退屈の原因にもなりかねない、と言うことになって……

コロナ騒ぎがもたらしたもの

 多くの人が、次第に世の中の『おかしさ』に気づき始めている。最後まで『気づき』が得られなかった層は生き残れない。人は『衝撃的な事実』にショックを受けて考えることを開始する。哲学者ジル・ドゥルーズは人間はショックという自分に対する不法侵入がなければものを考えない、と言う。確かに、普段はものを考えないで済む生活を目指して生きているのが現実だろう。
 ウクライナの問題やアメリカの滑稽な、コメディのような現状にはっとなって、やっと頭が回り出す。
 退屈の分類で②が一番つき合いやすそうだ。しかし───自分が生きているこの社会が嘘で塗り固められた虚構のマトリクスであることに気づいたら……

 ②のパターンでの<何かに際して>には、 <オーディオしている時に>をあてはめることができる。<オーディオしている時に退屈してしまったら?>
 オーディオは【好きなこと】で【大切な趣味】のはずだ。にも関わらずあくびが出てしまうことがある。単なる睡眠不足か? 
 生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在にふと思いがいたってしまったのか───何をしてもいいが、何もすることがないという欠落感、こんな時こそ何か「打ち込めること」「没頭できること」を渇望するものだ。そしてそれがオーディオだったはず。
───オーディオの魔界に『美音』狩りに出掛けていく人は、いい音でいい音楽が聴きたいだけではない。
 そうなのだ。【オーディオの魔界】の奥深くへと歩を進めるのは『いい音で音楽が聴きたい』などといった小学生の憧れみたいな、ほんわかした純情とはかけ離れた複雑怪奇に屈折した憧憬、あるいはその残骸のためだ。
 なんだそりゃ? と眉を顰められるのがオチだろう。
【オーディオの魔界】とは、俗にいう欲界に近いイメージだ。欲望にとらわれた淫欲と食欲がある衆生が住む世界。本能的欲望(カーマ)が盛んで強力な世界。
 音のグルメ、などと言った可愛らしい話だけではない。アンプ、スピーカーなどの『モノ』に対するフェティッシュな執着が色濃く混じり込んでいる【※ 本来、フェティシズムとは、生命を持たない呪術的な物(フェティッシュ英: fetish、仏: féticheという)に対しての崇拝を指し、性欲とは無関係】。


 オーディオ愛好家ならば誰もが体験するであろう、ドギマギする濡れたような透明感、そこに我々【日本人の美意識】を揺さぶる何かがありそうで……


日本の美意識:侘・寂・あはれ/MADE IN JAPAN

 わびは「侘び」は「わびしいこと。思いわずらうこと、悲しみなげくこと。そして俳諧(はいかい)・茶道の精神で、おちついて、静かで質素なおもむき。閑寂」(「新選国語辞典」第9版)という意味。もともとは、「思うことがかなわず悲しみ、思いわずらうこと」という意味だった。やがて思い通りにならない状態を受け入れ、その状況を悲観することなく、それをむしろ楽しもうとする精神的な豊かさを表現した言葉になったらしい。
 さび「寂び」は「日本の古典芸術の代表的な美のひとつ。現象としての渋さと、それにまつわる寂しさとの複合美。無常観や孤独感を背景として、和歌・連歌・茶など、ジャンルを超えて重んぜられた」(「古語大辞典」)とのこと。「古さや静けさ、枯れたものから趣が感じられること」で、精神性を表現した侘びとは異なり、寂びは内面的な本質が表面的にあらわれていくその変化を美と捉える概念だろうか。

日本製のオーディオ機器のいくつかに、そうしたテイストがふと感じられる瞬間がある。


 現在の世相のせいなのか、年齢のせいなのか───食についても、こってりしたものより淡白で繊細な和食風の仕上げが好ましく思えるようになってきた。



ただ、音楽をいい音で聴きたいわけではない。人生の宿痾である『退屈』を振り払う『熱中』が欲しいのだ。

 では、どうすれば『熱中』できるのか───簡単に手に入る、達成できるようではダメであって、困苦、困難を克服せねば手に入らない障壁、抵抗が必須になる。退屈に耐えられず気晴らしを求めることは、ある面では苦しみを求めることになりかねない。オーディオで苦しみたいって? それは、難しい。苦しむためには、高い理想を設定して、そこに到達すべく七転八倒する? 問題は、その高い理想の音をどう設定するか、になってくるだろうか……

 それは、大それた高い壁でなくてもいいのかもしれない。ささやかな憧れでも高嶺の花であれば成就されずに悶々とすることになるだろうし……
 思わぬタイミングで恋に落ちるという不条理に苦しむ、というのも退屈しのぎにはなるだろうか。McIntosh というパートナーがいるのに最新の Technics に恋してしまった。elysia のサウンドがその新しい恋の炎に油を注ぐようなことをしてくれた。




<暇と退屈の倫理学>の終盤、いよいよ結論に近づいてきた。ここでは、先に結論から入りたい。(引き続き、本文から引用・編集)

───ハイデッガーの退屈論の結論は決断だった。人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ……。

 しかし、國分功一郎は別の結論を目指している。そこに触れる前に、ハイデッガーの結論と提案を再検討しておきたい。

① 人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだからだ。

② 人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。

 結論を出す前に、一つ確認が必要な重要事項がある……


【 続く 】




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