My Audio Life /暇と退屈(4)

変化のための変化






 ただ気分を変えるという、変化のための変化に走るのは『浪費』だと言われがちだ。引き続き<暇と退屈の倫理学/國分功一郎>から引用・再編集していこう。
 こういう、いわゆるガラガラポンに近い入換はオーディオ好きなら誰でも心当たりがあるだろう。動機は人それぞれ。毎日聴いてると飽きる、というストレートな理由もある。あれこれの不満が出たり、新製品の誘惑に負けたり、販売店や仲間にそそのかされたり……
 リセール・バリューの高いブランドならヤフオクで高く売れるので、追加の出費は想像するほど膨らまない。
 バブルの時代は、ものが過剰で浪費が蔓延していたかのように言われがちだが、商品は買い手より生産者の都合で供給されがちで、どうでもいいガラクタばかり増えて本当に欲しいものがなかなか見当たらない、という事態に陥る。本当の満足が得られない。浪費ならではのねじれた満足感が得られない。ひたすら消費させられるループに突入だ。『記号』『観念』『意味』、あるいは『うんちく』の絶えざる消費ゲームを続けさせられる。浪費して満足したいのに消費の煙幕に巻かれてしまう。
 あたかも浪費であるかのように批判されたり嘲笑されたりする。しかし、こうした消費からは満足は得られない。消費には限界がなく延々と繰り返される。満足できないせいで消費は過激になっていく。過剰になるとますます満足の欠如が強く感じられるようになる。ああ、本当の「贅沢をさせてくれ、満足させてくれ!」と叫びたくなるかもしれない。

 こうした空転する消費を頑なに拒否するオーディオもある。もっと観念的な遊び、細部だけをいじるミクロ的な変化の壁で囲い込まれたアプローチ。少なくとも消費されるのは『記号』『観念』『意味』、あるいは『うんちく』がほとんどで、現物の支出はわずかだ。

 消費はしているが浪費はしていない……    暇はないが退屈している……    自分の現実感を喪失して、フランクルの言う【実存的真空】状態になっている。日々、無意味との戦いが続く。暇なき退屈はどう解消されるべきなのか。

【 続く 】








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