1980年のベーム
死の前年・改
なんと法学博士だったベーム
Wikiより
グラーツ生まれ。弁護士である父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得た。しかし同時に父親がグラーツ市立歌劇場(英語版)の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキの個人教授で音楽を学んだ。
1917年 - グラーツ市立歌劇場でデビュー。リヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの『ローエングリン』を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。グラーツ市立歌劇場では首席指揮者に予定されていたが、ワルターの招きにより、1921年 よりバイエルン国立歌劇場の第4指揮者に転任。ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任せている。
1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場(英語版)音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポリタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビング(英語版)であり、彼らの友情は終生続くこととなる。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの『ヴォツェック』を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。
【引用終了】
ワルターとも深い関係があったのだ…… それにしても、この第九の枯淡の風合は…… 己の死を予感していたかのような無駄を削ぎ落とした、贅を排除した、禁欲的な解釈だ。彼は、グラモフォンにも遠慮することなく、プロデューサーの意向も無視して、自分のやりたい音楽をやり切った。そんな印象濃厚だ。
カラヤンの死の直近、ブルックナー8番ライブの、最後の業火のような、冷たく沸騰するような激しさを内包した演奏。これはその対極にあるような、己をさめた目で見つめる法学者の眼差しが感じられる演奏だ。二人の哲学の違いがはっきり感じられて胸がつまる。
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